うちの近く、それも徒歩2分以内の場所に寿司屋さんがあることを知る。
2004年頃にできたらしいのだが、看板もなんにも無いのでまったく気付かなかった。
ではなぜ私がその店の存在を知ったのか?なんの気なしに自宅周辺の情報を検索してみたら
引っかかったのだ。
それらの情報によると、その寿司屋さんは「おまかせコース」のみを受注(というのか?)
しており、その値段は一人1万5千円という。いちまんごせんえん!二人で行けば3万円!
私なんかには一生縁がない価格設定だ。
で、検索した情報の中には、そこの寿司屋さんで食事をした人による感想を、投稿方式で集めている
ものもあった。そして、それらの中には虫酸が走るような文章もあったのだ。長いけど全文コピー。
普通のマンションの一室の扉を開けると、落ち着いた空間が広がります。
接客は全てご主人一人でこなします。
握りのネタはどれも秀逸。鮪は大トロ3カン、赤身、1枚づけの小鰭、酢締めの鰺、
烏賊は白烏賊(?)、車海老、銚子の大きなトリ貝、利尻のうにがそれぞれ2カンずつ、
今年最初の5枚づけのシンコ、炙った穴子、大原の蒸しアワビが1カンずつと卵で
計21カンでした。
シャリは赤酢で甘くない加減で普通に美味しい。腰高で本当に地紙のような握りです。
しかし座りを気にしてか、握ったあとに置いて上から押さえ付けるので、シャリの底が
重たくなり、ネタとの一体感が欠けてしまいます。ご主人の動作はとても丁寧で清潔ですが、いまいちリズム感に欠けます。
またネタをいちいち冷蔵庫からだし、きちんとしまい戻すので、すべてのネタが冷たく、
せっかく藁櫃で人肌に保ったシャリとの温度差を感じます。
ガリやお茶は頼まないと出てきません。結局ガリはリクエストした1回だけで、
補充はありません。こちらも頼まなかったのはガリがあまりおいしくないし、冷たいのです。
お茶は最後にお勘定のまえに一杯出ただけでした。
かんびょうは煮方は良いが巻きがゆる過ぎ、手巻きみたいでした。
この店はネタ数は少ないが、いいものを仕入れており、意欲的で今後期待できます。
しかし今回席数の半分程度の客でしたが、すべての接客を1人でというのは客によっては
ストレスです。つけ場まわりに人を常におくべきでしょう。
それに寿司屋の基本であるガリ、お茶、巻き物の供し方をしっかりしてほしい。
いい料理は素材の質や小手先の技ばかりでなく、基本のしっかりしたサービスの上に
供されて本当の真価を発揮できるものと思います。鮨の場合、食べ手の呼吸に合わせて、
きちんと手当てをした適温のいいネタと旨いシャリで握りが供され、ガリで脂や甘みを
断ち切りながら、お茶をすすり余韻を楽しみ、旨い巻物でしめる、これらすべてが
握りを食べることだと思います。
…この文章の作者は自分が食通(嫌な言葉だ)であることを自認しており、
しかも自分が抑制した筆致で達意の文章を書いている、と思いこんでいる節がある(穿ちすぎかな)。
ああ鬱陶しい。なにが「地紙のような握り」だ。
何が「シャリの底が重たくなり」だ。
文章から、「僕ァ、寿司には一家言もってるンだがねェ〜」と得々と語る作者の不遜かつ
俗物っぽいツラが浮かんでくる。俺とは話が合わなさそう。
まー1万5千円も払ったんだからいろいろ細かい文句をつけたくなる気持ちも分かるんだけどさ。
そういえば、ずーーーっと昔、ウチのオヤジが、フランス料理かなんかについて書かれた文章
(その文章は学校の同窓会報のようなものに掲載されていた筈)を読んで、「嫌だ嫌だ!」と
言いながらクシャクシャに丸めてゴミ箱に投げ込んでた記憶があるのだが、その文章も上記のもの
と同様のものであった。
(確か、「…小鴨のローストは芳醇な味わいだが、上に添えられた肉桂はまったく余計である…」みたいなかんじ)
どうして食い物について書いた文章には、こういう嫌味なものが多いんだろ?そしてなぜ、こうした嫌味な文章が
「かくあるべきもの」として認知されているんだろ?
…あーいかんいかん。こんなことでカッカしてもしょうがない。大変むなしい。