チャーリーの火葬に行く。
新しく家のできる土地に埋めたらどうかとも思ったが、地面は厚い雪の下だし、
土も石ころ混じりの硬い場所なので、そんなところに埋めるのに違和感を持ったので、こうした。


よく、「肉体は滅んでも魂は不滅だ」などというけど、まあ肉体が滅ぶのはその通り。
では魂は?というと、魂(ってなんだ?多分、ヒトは生きてるといろんなことを考えたりする
ので、そういった精神活動の主体を魂と呼んだのかもしれない。でも、それも脳みそという
肉体あってのことなので、結局、一般的にイメージされている、肉体とは別口での魂なんてもの
はただの妄想だろう)も、そういつまでも永久不滅だと本人もまわりも持て余すだろうから、
きりのいいところで消滅したほうがよさそうだ。


私やカミさん、他の9匹の猫が死ねば、チャーリーをよく知るものはすべて消滅するので、
それで、晴れてチャーリーの魂も消滅ということになると思う。ヒトも一緒だな。


マーク・トウェインは「わたしは成人してこのかた、解放された友人たちが復活することを
一度たりとも願ったことがない」と書いている(とヴォネガットが書いてました)。
ヒトにとって生きることは、ひどい目にあったり面倒くさかったり、会いたくも話したくも
ないような人と会って話さなきゃなんなかったり、つまらないテレビを見たり、元気いっぱいの
他人の様子を見せつけられたり、と、げんなりするようなことがほとんど。面白い本を読めたり、
こりゃうまい!というものを食ったり、会いたい人に会えたりもするけど、まあ収支的には
つまんない苦労のほうが多い。ゆえに、死は雑事からの解放であり、マーク・トウェイン
ヴォネガットも、目出度く解放された友人たちの復活を望まなかったんだろう。


ヒトはそうなんだろうけど、一方、ネコはどうか?
ネコはただ生き、ヒトのように余計なことは考えない。と思う。脳みそ小さいので。
まあネコなりに、気に食わない同族やヒトとの戦いや、野良であれば食物を得られない苦しみは
大いにあるけど、それについて自省したり、他のネコと引き比べて落ち込んだりすることはない
筈なので、つまり生きることは、解放を待ちわびるほどの苦行ではない。


ヒトの死であれば「解放されてよかったなあ!二度と蘇ってくるなよ!」と喝采できるけど、
ネコの場合はどうしたものか。まあネコ本人はなにひとつ気にしていない筈なので、どうでも
いいんだけど。